• 33セクハラ人民裁判に邁進する反米・極左
    2022/12/17(土) 16:50:25 ID:zCFJWRvA0
    >日本共産党は機関紙『しんぶん赤旗』で、同両親が党員であったことを認めた上で「同事件は暴力団との関係も指摘されている、許すことのできない残虐な事件であり、もちろん日本共産党とはいっさい関係ありません」との記事を掲載した[72]。その1ヵ月半後には同両親の対応を検証した特集記事が『しんぶん赤旗』に連載された[73]。
    .
    >『朝日新聞』1989年4月4日朝刊の「ニュース三面鏡」は、「少女は無断外泊もままある非行少女」と書き、見出しに「女高生殺人事件数々の疑問」「助け求められなかったか」と掲げた[64]。また、1990年4月19日から25日にかけて連載された「なぜ、彼らは」では「強姦」を「関係を持つ」という言葉に置き換え、そこにあたかも少女の同意があったかのようにほのめかし、「(Cの母親が)いったんは少女を送り出した」と掲載した[64]。大道万里子はこれを「この記事を読んだ人は、自ずと『少女も遊び感覚で(加害者らの家に)留まっていたのではないか……』という印象を受けるように仕向けられている」と批判した[64]。
    .
    >事件当時、少女の遺体が入ったコンクリート詰めのドラム缶は重さ計305kgあり、2、3人で持ち運べる重さではなかったため、綾瀬署は多人数でワゴン車やトラックなどの車を用いて遺棄したとみて捜査した[15]。近隣住民によれば、前年末頃まで夜中にバイクの音がしたり、現場宅の2階で騒ぐ声が聞こえたりした[15]。玄関脇の電柱をよじ登って2階の部屋に出入りする少年の姿や、ベランダに脚立が置いてあるのが目撃されており、近所の主婦は「玄関を通らずに出入りしていて、両親も気づかなかったのではないか」と話していたため[15]、少年二課は少年らが、Cの家族の留守中を狙って出入りしたり、電柱を伝って部屋を出入りすることで、Cの家族と顔を合わせないようにしていたとみている[14]。
    .
    >Cの家庭は両親が共働きでいつも帰宅が遅かった上、Cによる家庭内暴力が激しかったことからCの両親(日本共産党員)はCをあまり監督していなかった。
    .
    >そのため、事件当時、Cの部屋は不良少年たちの溜まり場となっていた[判決 1]。
    .
    >1988年8月以降、加害者少年Bと加害者少年CはCの兄Gを通じてつながりを持ったことをきっかけにCの部屋を中心に不良交友を始めた[判決 1]。
    .
    >少年Aは1988年10月頃、Gの盗難バイクの捜索に協力したことを契機にG・C兄弟に接近し、C宅に出入りするようになった。
    .
    >少年Dは中学の同学年でBと知り合いになり、それが縁で、B・Gを通じてC宅に出入りし、それぞれ不良仲間に加わるようになった[判決 1]。
    .
    >少年らの先輩には足立区を根城にしている暴力団の組員がおり、加害者少年Aらはその組の青年部組織を気取って「極青会」と名乗っていた[6]。
    .
    >1988年10月ころから、この4人の不良グループは少年Aを中心として順次、女性を狙ったひったくり・車を利用した強姦事件などを繰り返し起こすようになった[判決 1]。
    .
    >B・C・Dの加害者少年3人は、被害者少女を部屋に監禁する一方で、1988年11月から12月頃にかけて、少年Aを通じて暴力団関係者の経営する花屋で仕事を手伝うようになり、街頭で花売りなどをした。
    .
    >1988年12月中旬ごろには、B・C・Dの加害者少年3人は暴力団の忘年会・組事務所の当番にも駆り出されることがあった[判決 1]。
    15 0

人気の記事