43 TBS、重信メイ、日本赤軍、重信房子、明治大学、革労協 2025/06/22(日) 19:17:45 ID:I657A.Yg0 >『重信房子』Wikipedia>東京都世田谷区で4人兄弟の次女として生まれた。父の重信末夫は四元義隆と同郷の鹿児島県出身で、第二次世界大戦前の血盟団事件に関与した右翼団体金鶏学院の門下生であった(血盟団メンバーと報じられることがあるが、メンバーではなく事件にも一切関与していない)。房子はこの父の影響を強く受けた。少女時代は「小さな親切運動」に熱心に取り組み、表彰を受けた[3]。また、文学少女でもあった[3]。>東京都立第一商業高等学校卒業後、キッコーマンで働きながら小学校教員を目指し[4]、明治大学文学部史学地理学科の夜学に通う。大学では一時期明治大学雄辯部に参加[5]、更に文学研究会に入会して『一揆』というミニコミ誌を出していた[3]。>学生運動>大学入学後、夜学連に参加し[6]、2年次に文学研究会が属していた研究部連合会の事務長を務めていた[6]重信は学費値上げに絡んで明大闘争に参加した。この際、後に連合赤軍山岳ベース事件でリンチ殺人の犠牲となった遠山美枝子(二部法学部、麒麟麦酒勤務)と知り合う。明大闘争において全学連における立場を失墜させた共産主義者同盟(第二次ブント)の再建に協力してほしいとオルグされ、加入[7]。系列の明大現代思想研究会、二部の社会主義学生同盟の責任者として活動。神田カルチェ・ラタン闘争にも関わった[8]。その後分裂した共産主義者同盟赤軍派に創立メンバーとして加わる。塩見孝也ら幹部が逮捕され弱体化する中で主導権を握った森恒夫と対立した。>1970年(昭和45年)5月9日、前年発覚した大菩薩峠事件に関与していたとして、東京都町田市内で爆発物取締罰則、殺人予備容疑で逮捕される。この時点で共産同赤軍派の女性最高幹部とされ、前年に塩見孝也が逮捕されて以降、組織全体を動かす重要なポストについていたと目されていた[9]。後に釈放。>日本赤軍>重信は1971年に「国際根拠地論」に基づいて、パレスチナに赤軍派の海外基地を作ろうとする。>同年2月2日に神戸市で「京都パルチザン」の奥平剛士との婚姻届を提出、「奥平房子」という戸籍を得て2月28日に出国した。1972年の時点で、結婚相手の奥平剛士(1972年5月、民間人ら23人を殺害、計100人以上を無差別殺傷したテルアビブ空港乱射事件のテロ行為で死亡)とは偽装結婚であると報じられており、潜伏先であるレバノンのベイルートでは別々のアパートを借り、現地の日本人に「あの人は本当は主人ではないのです」と説明していることなどが根拠とされている[10]。なお重信は、後にパレスチナ人男性と結婚した。>重信房子や奥平剛士らは、国際義勇兵としてパレスチナ解放人民戦線(PFLP)に参加して、「革命運動」を主張してレバノンのベカー高原を主な根拠地に軍事訓練を行った。このため当初は独立した組織との認識は共有されておらず、自称も「アラブ赤軍」、「赤軍派アラブ委員会」、「革命赤軍」等であった。1972年5月にはテルアビブ空港乱射事件後のPFLPと重信との共同声明の中で、「『日本赤軍』結成の日」との表現が使用されたが、組織名称を公式に「日本赤軍」としたのは後の1974年であった。重信は日本赤軍の最高幹部となり、1980年代にかけて世界各地でハイジャック事件や誘拐事件を含む多数の日本赤軍事件を発生させ、ドイツ赤軍や赤い旅団などにも影響を与えた。>逮捕>その後、重信は「ハーグ事件」への関与で国際手配を受けたものの逃亡を続け、不法に入手した偽造旅券を使って日本に不法入国し、その後しばらく大阪市西成区のマンションに潜伏していた。>2000年、日本赤軍の支援者を視察していた大阪府警警備部公安第三課は、視察対象者が重信に似た女性と接触していたのを現認し、視察・捜査を開始[11]。重信は特徴となっていたホクロを化粧で隠していたものの、独特のタバコの吸い方や、重信に似た女が某所で飲んだコーヒー缶から採取された指紋が一致したことなどから、女が重信であることを突き止めた[11]。そして公安第三課はハーグ事件から26年後の2000年11月8日に重信を大阪府高槻市において旅券法違反容疑で逮捕した[12]。なお、大阪から警視庁への移送には東海道新幹線が用いられ、逃亡を防止するため当時存在したグリーン車の個室に閉じ込めての移送となった[11]。 1 0
>『重信房子』Wikipedia
>東京都世田谷区で4人兄弟の次女として生まれた。父の重信末夫は四元義隆と同郷の鹿児島県出身で、第二次世界大戦前の血盟団事件に関与した右翼団体金鶏学院の門下生であった(血盟団メンバーと報じられることがあるが、メンバーではなく事件にも一切関与していない)。房子はこの父の影響を強く受けた。少女時代は「小さな親切運動」に熱心に取り組み、表彰を受けた[3]。また、文学少女でもあった[3]。
>東京都立第一商業高等学校卒業後、キッコーマンで働きながら小学校教員を目指し[4]、明治大学文学部史学地理学科の夜学に通う。大学では一時期明治大学雄辯部に参加[5]、更に文学研究会に入会して『一揆』というミニコミ誌を出していた[3]。
>学生運動
>大学入学後、夜学連に参加し[6]、2年次に文学研究会が属していた研究部連合会の事務長を務めていた[6]重信は学費値上げに絡んで明大闘争に参加した。この際、後に連合赤軍山岳ベース事件でリンチ殺人の犠牲となった遠山美枝子(二部法学部、麒麟麦酒勤務)と知り合う。明大闘争において全学連における立場を失墜させた共産主義者同盟(第二次ブント)の再建に協力してほしいとオルグされ、加入[7]。系列の明大現代思想研究会、二部の社会主義学生同盟の責任者として活動。神田カルチェ・ラタン闘争にも関わった[8]。その後分裂した共産主義者同盟赤軍派に創立メンバーとして加わる。塩見孝也ら幹部が逮捕され弱体化する中で主導権を握った森恒夫と対立した。
>1970年(昭和45年)5月9日、前年発覚した大菩薩峠事件に関与していたとして、東京都町田市内で爆発物取締罰則、殺人予備容疑で逮捕される。この時点で共産同赤軍派の女性最高幹部とされ、前年に塩見孝也が逮捕されて以降、組織全体を動かす重要なポストについていたと目されていた[9]。後に釈放。
>日本赤軍
>重信は1971年に「国際根拠地論」に基づいて、パレスチナに赤軍派の海外基地を作ろうとする。
>同年2月2日に神戸市で「京都パルチザン」の奥平剛士との婚姻届を提出、「奥平房子」という戸籍を得て2月28日に出国した。1972年の時点で、結婚相手の奥平剛士(1972年5月、民間人ら23人を殺害、計100人以上を無差別殺傷したテルアビブ空港乱射事件のテロ行為で死亡)とは偽装結婚であると報じられており、潜伏先であるレバノンのベイルートでは別々のアパートを借り、現地の日本人に「あの人は本当は主人ではないのです」と説明していることなどが根拠とされている[10]。なお重信は、後にパレスチナ人男性と結婚した。
>重信房子や奥平剛士らは、国際義勇兵としてパレスチナ解放人民戦線(PFLP)に参加して、「革命運動」を主張してレバノンのベカー高原を主な根拠地に軍事訓練を行った。このため当初は独立した組織との認識は共有されておらず、自称も「アラブ赤軍」、「赤軍派アラブ委員会」、「革命赤軍」等であった。1972年5月にはテルアビブ空港乱射事件後のPFLPと重信との共同声明の中で、「『日本赤軍』結成の日」との表現が使用されたが、組織名称を公式に「日本赤軍」としたのは後の1974年であった。重信は日本赤軍の最高幹部となり、1980年代にかけて世界各地でハイジャック事件や誘拐事件を含む多数の日本赤軍事件を発生させ、ドイツ赤軍や赤い旅団などにも影響を与えた。
>逮捕
>その後、重信は「ハーグ事件」への関与で国際手配を受けたものの逃亡を続け、不法に入手した偽造旅券を使って日本に不法入国し、その後しばらく大阪市西成区のマンションに潜伏していた。
>2000年、日本赤軍の支援者を視察していた大阪府警警備部公安第三課は、視察対象者が重信に似た女性と接触していたのを現認し、視察・捜査を開始[11]。重信は特徴となっていたホクロを化粧で隠していたものの、独特のタバコの吸い方や、重信に似た女が某所で飲んだコーヒー缶から採取された指紋が一致したことなどから、女が重信であることを突き止めた[11]。そして公安第三課はハーグ事件から26年後の2000年11月8日に重信を大阪府高槻市において旅券法違反容疑で逮捕した[12]。なお、大阪から警視庁への移送には東海道新幹線が用いられ、逃亡を防止するため当時存在したグリーン車の個室に閉じ込めての移送となった[11]。