そこで、この道にはこびがうとくなったり、上も下も人をあいする心なら、手くびにこしょうはおきてきませんでね。
「両うでのつけねと足の両方のふとももとは」天の理、または目上の理。手の両方の手くびと、足の両方の足くびは、地の理、すなわち両うでと、足のふとももの両方は、男の神様五神、地の理は、女の神様五神、これをかたどって、世の中をおこしこさえくださってあるのでございますよ。「手のひじの両方のかんせつと、左足右足の両方のひざかんせつは」そうほうともに、言葉のききわけのあらい人が、ひざのかんせつをわずらうのでございますよ。そこで、天地人かんせつのふしの、いみあいがわかったでしょう。それから、みなさんもよくあじわって、よくよんでくださいね。
「首と かおと あたま」と、これはよういならんきかいでございますよ。
のどは、へんとうせんだとか、いんこうがんだとか、りんぱせんだとか、
(世界心道教の教え続き)
いろいろとのどのやまいも、たくさんあるようでございますんね。
口の中も、口の中があれたり、したにおできができたり、あごのほねが、しそうのうろうになって、ほねがくさって、はのぬける人も、たくさんあるように思いますねい。とにかく天のお心にそわないで、ぐちや、こごとや、腹だちや、なさけないやら、くやしがり、よういならん心をつかう人が、のどや、こうちゅうのわずらいをするのでございますよ。
「しそうのうろう」は、だい一ばんに、くやしがりの人ですよ。
「こうちゅうのあれるのは」人をがみがみと、がなりつける心の持ち主の人におおいですね。
「いんこうがん」の人は、自分のいいじょうをとおして、人のいうことを、一つもきかん人が、いんこうがんになるんですよ。「へんとうせん」の人はあいての人が、自分のいうことをもちいてくれ
(世界心道教の教え続き)ない、というて腹をたつ人がへんとうせんをわずらうのですよ。それかというて、自分には、おちどがないと思っているのに、またあんなことをいうというて、腹たつ、これがへんとうせんを、わずらうことになるのですから、日々うちうちのものと、人様とも、心しんからうちあけて、かたりあうようにして、おくらしください。へんとうせんは、ねぎれになりますでね。
「りんぱせんのはれる」人は、しんこうしんねんの、うとい人ですから、おたがい様に月日様という、み親様のお心を、よくさとるにありと思います。また親や兄弟や、そふぼ、しんせきえんじゃ、学校の先生、学校のともだち、そうゆう人々を思いやってくらすにありと思います。なぜなれば、そとからうちへもどってきて、自分のつごうのよいおきゃく様が、見えておられる時は、きげんよく「こんにちは」とあいさつもするでしょうが、気にあわん人が、うちへ出いりをすると、よくてもわるくても、
世界心道教の教えは他人に当てはめるのではなく自分に当てはめ心の改良をするために使います。
人(他人)に理(世界心道教の教え)を当てはめて批判することは絶対にしてはいけません
頭が痛いのは目上の人に逆らうと頭が痛くなりやすい
口に出さなくても心の中で不足や不平不満、腹立ちをしていれば心がくもりますよ。
心の中もしっかり油断なきように
世界心道教の教え続き)
心の中で人をあざける心、兄弟でも学校のともだちでも、人とまじこるような心は一つもなく、いつの時でもすじばって、こりくつや、へりくつばかりいうてくらしている人が、りんぱせんをわずらうのですから、ぜんあくをとわずに、人をあいする心のもちぬしになって、くらしてくださいね。
それから、きものでも、ようふくでも、ぼうしでも、くつでも、自分の気にいったものはあいするが、気にいらんものは、かってくれて親や、人様をあざける心の持ち主に、おおいようでございますよ。
それから、人のかおを見て、ブツブツいうている人が、がんめんがおできになったり、人をにくむ心のもちぬしの人が、がんめんしんけいつうになったり、ああしてくれん、こうしてくれんというて、ふそくばかりいうている人が目のところに、ものもらいができたり、トラホームになったり、
目上にさからうくせのある人が、ひたいに、がんがさのような大きなおできをこしらえて、苦しんでいる人も、世の中にはたくさんあるように思いますが、みなさんはいかがでございますか。
はなでも、においのかげる人、いっさいのものに、においのわからん人、または、ちくのうしょうの人、はなたけの人、はなでも、いろいろとやまいのしゅるいは、たくさんあるそうですでございますが、
「ちくのうしょう」は、ものをたべすぎる人、さきあんじのつよい人、腹の中で、のうがきや、へりくつ、こりくつでかためている人が、ちくのうしょうになるのですから、こうした心は、やめていただきとうございます。
「はなたけ」をわずらう人は、びんぼうはいやだというて、けっこうばかりのぞんでいる人が、はなたけになるのですよ。自分がけっこうになれば人をがんかにみくだして、あざける心の持ち主ですから、人をあざけること
(世界心道教の教え続き)
をやめて、神様がけっこうにしてくださるまでは、ふそくをいわずに、ただもくもくとくらさしてもらう心なら、はなたけをわずらうようなことは、ありませんでねい。しっかりと心して、日々をあじわっておくらしくださいませ。それから、目のわるい人も、世の中にはたくさんあるように思いますねい。
白そこひとか、青そこひだとか、黒そこひだとか、血目だとか、かくまくだとか、はくないしょうだとか、けつまくえんだとか、トラホームだとか、いろいろなやまいは、たくさんありますね。
「しろそこひ」は腹だち、
「あおぞこひ」はおっとぶそく、
「ちめ」は、かないぶそく、
「くろぞこひ」は、この世の中へうまれさしてもろうてから、おれくら
いくろうしたものはないと、にちや、なげき、くどきの心の持ち主が、黒そこひになるのですよ。わかいうちは、目のわるいようなこともあまりないあまりないでしょうが、だんだんと、ねんげんたつうちに、こぼこりが、どろぼこり大ぼこりとなって、おまえのような人間は目をあけておくと、ろくなことをしないから、ここらあたりでめく⭕️らにしておかないと、さきざきこの世をおわった時、人間界へうまれさすことができんから、めくらにしておけば、なげくか、くどくか、腹たつくらいで、さのみわるいこともできないからと、天からサジかげんをしてくださるようになるのだから、まずまず人間は、月日親神様をはじめたてまつり、八方様のごいしにかなうような日ぐらしをしてくださいね。
人間というものは、わるいと思うことはみなやめて、よいことのみしてくらせば、一代まつ代ぶなんでくらせますからねい。天から、みじょうさしと
(世界心道教の教え続き)
めをくわんように、おくらしくださいね。うちの中の人や、いろいろな人を見て、よくの心をだして、思うとうりにならんというて、ブツブツいうて日ぐらしする、よくのこんじょうの持ち主が、トラホームになるのですよ。
うわべはやさしくて見えて、腹の中でブツブツ腹をたっている人は、はくないしょう。
何かといえばやけくそをおこすのが、けつまくえん。
(世界心道教の教え続き)
「けつまくえん」の人は、かあっとのぼせしょうをやめないと、けつまくえんはなおりませんよ。「かくまく」は、かないや、こどもや、おっとや、親に、ないしょごとをして、しらばっくれた心でおると、かくまくになるんですよ。
世わたりをするのに、ないしょもよくないことですね。わかりましたか。それから、「みみのやまい」をわずらう人は、やっきになって気をもんで、まわりの人に、うるさいうるさいといわれて、わたくしのはなしは、ちっとももちい
(世界心道教の教えの続き)んというて、いつもふそくをいうて、人がものをいうても、きこえないようなふりをしたり、きこえないでも、きこえているようなふりをしたり、とにかくやっきになって、のぼせあがったような心をやめないと、耳が聞こえにくくなりますから、おだやかな心をさだめてゆだんなく、りみちたしかに、言薬やわらかく、おくらしくださいませ。
そして、みなさんに、ひとこともうし上げておきますが、耳がかゆいというて、マッチのぼうやら、ピンドメやら、かんじんよりやらで、耳をほじくらんよう。きたないゆびさきの手で、耳をかかんよう。あるいっていの耳かきを、きれいにあらって、耳をかくようにしたり、耳がきこえにくくなった時は、耳中でもだえず、しんちんたいしゃをしていてくださいますから、耳鼻科(じびか)に行って、耳をそうじしてもらった方が、よいと思います。
むやみやたらと、耳をほじくってばかりいると、耳のこまくをやぶって、
(世界心道教の教え続き)しらんまに耳へ水がはいると、耳がちゅうじえんになって、一代耳が聞こえなくなりますから、心しておくらしください。ピンドメやら、マッチのぼうは、マッチの先に、かやくがついておるし、ピンドメなぞは、どんなほこりがついているかわからん。そのほこりの中にどんなばいきんがついているかわからん。つまらんむてっぽうなことは、やめてくださいね。みみがきこえないもとになりますから、日々心しておくらしくださいませ。
それから、あたまのきかいでも、せいみつなきかいであって、しゃべらしてくださるきかい、ものをかんがえさしてくださるきかい、天からおんいれぢえのきかい、あるかしてくださるきかい、ものを見さしてくださるきかい、あたまののうずと、土ふまずと、女の一のどうぐと、男の一のどうぐと、しょくどうから、いから、ちょうから、じんぞうから、かんぞうから、ふくまく
(世界心道教の教え続き)
から、しんぞうから、はいから、こまかくといたらかぞえきれんほどのせいみつのきかいを、天がおこしらえくだされて、「くもよみのみこと様」は、のみくい、大便小便の出入りのしゅごう。世上では雨のおさがりのしゅごう。それですから人をうらんでいると、くもよみのみこと様のお心にそわんから、はいのやまいをわずらわねばなりませんから、しゅうねんぶかく、人をうらむことをやめてくださいね。
「かしこねのみこと様」のお心にそわずに腹ばっかりたてていると、学校へいっても勉強はできず、うちのおとうさんや、おかあさんは、いまごろうちにいてけんかをしているのではないかと、つまらんことをあんじていると、勉強のすじのちえは、わからしてくださいませんよ。
そして、大きくなってから会社へつとめるようになっても、人は百も二百もしごとをしあげるのに、むだなことをかんがえていると、ちえのしゅごう
(世界心道教の教え続き)がうすくなって、三十か五十しかできなくなって、人にさげしめられて、ばかにされて、きゅうりょうがやすくて、親からはいせきされる。およめにいっても、むこさんにいっても、ろくなちえがうかんでこなくなるから、かねもち、ちょうじゃにもなれず、気みじかをおこして早くしんでしまうようなことになりますから、ぜんごさゆうをよくかんがえて、今はみなさん学校へ勉強しに行っているのでしょう。つとめさえかわらんようになりたなら天のあたえに、かわりないのでございますよ。なんどもなんどもよんで、しっかりと実行家になって、だいたいこのはなしをいいつたえてやってくださいね。
それから、よくのしあんにばかり、とらわれていると、たいしょくてんのみこと様のお心にそわんから、ろれつがまわらなくなったり、いろは四十八文字が、はっきりとしゃべれなくなったり、ぱぴぷぺぽ、ばびぶべぼ、というような音がろくにでなくて、また人にさげしめられることになりますから心しておくらしください。
自分のみよく、がよくにとらわれていると、人ににくまれて、うだつのあがらんことになりますから、よくのこんじょうをやめておくらしくださいませ。
「よくのこんじょう」とは、親両親が、子どもにおかしをわけてくださるそのおかしを、自分はさっさとたべてしもうて、ほかのこどもがたべているおかしを、たたきおとして、ほかのこどもを泣かしておいて、たたきおとしたおかしをもって、どこかへかくれて、そのおかしをたべてしまう。ほかのこどもは、また母親からもらう。人のものまでとってたべておいて、まだまだをこねて、母親からもんくを言われながらも、ひったくるようにしてもらって、たべるというような、よくのこんじょうをやめないと、
ごうよくひどうの心の持ち主になってしもうて、天からしんようをおとし、親から見はなされ、兄弟からはにくまれ、しんせきえんじゃもともだちも、よりつかなくなってしもうて、一代うかび上がることが、できなくなりますから、いつの時でもいつれつに、いただいたおかしをたべて、おとなしくくらすにありと思います。三ツ子の心百までもと、せじょうの人がいうておりますが、まったくみなさん、こうゆうじょうしきはずれの心にならんよう、人をあいする心になって、おくらしくださいませ。それから、「おおとのべのみこと様」のお心にそうようにするには、男気をやめて、いばり高ぶる心をやめて、すなおやさしい人になって、くらしてゆけば、しょうにまひやら、年とってから中気やらになりませんから、心しておくらしくださいませ。そして、いざなぎのみこと様や、いざなみのみこと様
にもかわいがられ、八方の神々様にもかわいがられ、かぞくのものにも、しんせきえんじゃにも、学校のともだちにも、学校の先生にもかわいがられて、くらせるように、けんきゅうしんをもっておくらしくださいませ。それから、みなさんが入学試験とか、または就職しけんとか、いろいろに申されておりますが、このたびの子ども会のおことばについて、いろいろ天からおことばをいただきましたね。こうした心で日夜天の心をそなえておれば就職難もなければ、学校の試験がはじまるというて、あたふたせんでも、つねに天を思いやり、親孝行の道をあゆんでおりさえすれば、結構な就職も天からさずけてくださるし、学校の試験にも、結構なおんいれぢえがあって、しけんに合格すること、うたがいなしでございますから、しっかりと心しておくらしくださいませ。きょうはこのへんで。
おわり
心が高慢または心が高いと試験に落ちる
怒ってばかりいると知恵と徳が減る。
怒ってばかりいると頭が悪くなる。
怒ってばかりいるとハゲになりやすい。
怒ってばかりいると早死にしやすい。
昭和三十九年六月二十日午前十一時四十五分御書取り
子ども講習につき御言葉御願い(おことばおんおねがい)
三十八年度子供会の御言葉の、つづきがらの御言葉を、天からいただいてあげますから、この御言葉も、くりかえしくりかえし読んで、あじわって、わからんところは、月々はこばしてもらった時、この御本を持ってはこんで聞かせてもらってください。よくわかりましたね。そこで、あれがほしい、これがほしいと、日夜欲の心で暮らしていると、月日様の御意志にかなわんから、月日様が、人間に入りこんでくださらないから、いろいろなものを、人からいただくことはできませんよ。「望む心の根をたやせ。あざやかとなる心しあんせ」と、おおせくだされてありますとおり、あれがほしい、これがほしいというて暮らしていると、ほしいほしい
負けるが勝ち
言い負かすと負けてしまう。徳が言い負かされた相手の方にいってしまう。父親をたたく(批判または不平不満をいうと)とお金に困る
189の続き)のほしだらけになりますから、自分よりしあわせものはないと、喜んで暮らすにありと思います。自分より暮らしのよい人を見ると、「上見れば、ほしいほしいの星だらけ下見て通れ星のかげもなし」と、おおせくだされてありますが、自分らよりあまり暮らしのよくない人と、自分とを、くらべて通れば、ほしいほしいという心は、わいてきませんでねい。
とにかく、おたがい様が、ほしいという心、おしいという心を使って、お前はよけいなことをいうな、だまっておれ、という強い心を使ったり、あんなものには、もう口はきかんというて、腹を立って、無口で暮らしているとおし⭕️んぼになったり、聞こえても聞こえないふりをしていると、つん⭕️ぼになったり、お互い様に、月日様が、「おし⭕️つ⭕️んぼ、おしつおされつ通りきた、強き心をとれば助かる」と、おおせくだされてあります通り、皆さんが成長
して、所帯をもって子供があるようになってから、おしつんぼの子供や、つんぼの子供がさずかるようなことはありませんから、日々の日暮らしに、人を思いやって暮らす心が第一と思う。 そこでわが身かわいいの心がじゅうまんしていると、国狭土之命様の御心にいはんするから、「わが身かわいいはめくらなり」とおおせくだされてあります通り、世の中でも、よくいうておりますが、あいつはよくで目が見えない、というでしょう。それだから、あるていど、人をうたぐってみなくてはならんかしょもありますが、うたがい心を、あまり使わん方がよいと思いますねい。日々の暮らしは、なるようにゆくように、親の心(天の御心)を心として暮らしてゆけば、案じはいらんと思いますが、うたがいと案じ心も、欲からはじまるのだから、いろいろと目が悪くなるいんねんも、日々つむのですから、いつもた
えずに、つまらん心のおこる時は、思いがえをして暮らしてください。金銭不足は、皮膚病をわずらうもとになりますから、日々にぶつぶついうて、不足をして暮らすこともやめてくださいね。家中の人も、外の人も、よくけんかをする時があるでしょう。その時は、夫婦げんかや親子げんかは、やめさしていただきとうございます、と天にお願いをしてお暮らしください。また、おとうさんやおかあさんやが、けんかをしている、困ったものやと、不足をいうている時は、けんかのうずの中にはいって、いっしょにけんかをしていることになりますから、けんかにたいして、やっきにならんよう、気をもみはじめると、顔があつくなって、目のまわりに熱をもって、トラホームやら、けつまくえんやら、かくまくやら、それをつのり重ねていると、そこひやら、いろいろな目のやまいをわずらって一代め⭕️くらでくらさにゃならんようになりますから、けんかの中へはまりこ
まんようにしてお暮らしください。それから、にくい心を使っていると、つきよみのみこと様のお心にそむくから、がんめんしんけいつうになったり、こしぬけのい◯ざりになったり、骨の病いのこつまくになったり、にくしゅになったり、一代足こしの立たん、なんぎな思いをして暮らさにゃならんことになりますから、おたがい様に、いいどおりのつよい、自分は、どこまでも正しいのだ、というごうじょうな心をやめて暮らさんと、人ににくまれて、人にへだてられて、なんでおれは人がよりつかないかなあ、とくやしがってくらさにゃならんから、人をにくむ心や、人ににくまれる心をけんきゅうしてお暮らしください、わかったでしょう。それから、お道のことは、においがけもし、お助けもし、心のかいりょうもし、本部にはこびもし、五拍子そろった、どこから見ても欠点のない、すなおやさしい、話しのよくわかる人がちで、どこにも欠点の
のない、あたたかい心の持ち主であっても、腹の中できょくぶてきに、相手方をうらみ、相手方が、自分の心に気にいらんと、部分的れいたんな心を使っていると、くもよみのみこと様の、お心にそわんから、ろうがいの病い、すなわち、はい病ろくまく、六かんしんけいつう。
なんでもかんでも自分のすることはまちがっていない、人はなんでも、おれにさからうやつは、ろくなめにあわんというて、きつい心の持ち主で、思うようにならんと、腹の中でむかむか腹を立って、がいかんはやさしく見えておっても、腹の中ではにえくりかえる心を使って、つめたい心の持ち主であるから、こうゆう人には、うかうか口もきけないようなことになってしまうからこうゆう心はやめたほうがよいと思う。いくらといて聞かされても、聞かされても、なかなかじがねという前生からの持ち前性分(もちまえしょうぶん)というものは、なかなか改良ができないとみえて、なかなか病いの根切れには、むずかしいよう
でございますねい。それから、なにかにつけて裏表のある人で、困ったことだと思います。そして、きれいずきでまわりから見れば、自分ではきたないことをしているのだが、自分のすることは、なんでもきれいで、人のすることは、気にいらなくて、なんでもみびいき身がってが強くて、ねたみ心が強くて、人にねたまれると腹を立って、こうゆう人にかぎって、約束はぜったいに守らなくて、相手方から約束を守らないといわれると、わしはこう思ったけれど、そうはいかなかった、といいわけをして、人をいいまかして、とくいになって、自分にとくのいくことであったら、頭の一つぐらいなぐられても、人にはじをかかされても、はじをはじとも思わん人で、それから自分に気にいらなくて、腹を立つと、こんどは相手の人がなにをいっても、うけいれない人で、ゆうずうのきかない人で、自分かっての日暮らしをしている人であって、
自分の願いを、人にかなえさすときは、むやみやたらとおせじを使って、ぺこぺこ頭をさげてたのんでるが、思いが通ると、またもとの腹立ちをもちさげて、相手の人のことは、ぜったいにもちいない人で、それはそれは、自分かってな人で困った人だと思います。こうした心の持ち主が、くもよみのみこと様の御心(みこころ)にいはんしているから身上にかかると、なかなかごりやくがいただきにくいと思う。それから、かしこねのみこと様の御意志にいはんする人の心使いは、かくの病い、すなわち、がん、いんこうがん、ちょくちょうがん、ちょうがん、いがん、しきゅうがん、がんというがんが、皆不足腹立ちのかたまり。かたまり一つ、しん一つ、なにがなんでも、どこもかしこも。いっさいの不足をやめて、道をやらしてもらう心なら、がんの病いは根切れになりますが、自分はりこうで、人はばかで、人をがんかにみくだして、おれがわしがの、げんこつならべて暮らしている人が、しょうしょうずつ、ばかと言われた人のほうへ、りきちをとられて、自分がばかになっていることに、心づかんのが、人の心だと思います。
そこでみなさん、お互い様は、いきふきわけ、ちえふんべつのりきちの守護を、たっぷりいただくのには、人をばかにする心をやめて、人を思いやる心を、親様月日様の、御心になって、また八方様のごくろうごかんなんを、よくさとって、いきふきわけ、ちえふんべつに心して、じあいをすてて、たあいのきと、きりついで暮らす心が第一と思う。そうした心で暮らしてゆけば、かしこねのみこと様の、御意志にいはんしないから、のうまくえんや、ばかは生まれてきませんから、ものをごまかす心も、やめて暮らしたほうがよいと思う。何かごまかしておっても、人間どうしはわからんが、天のほうでは、いつもごかんとくですから、ごまかした理によって
人をばかにしやがると、腹を立たす。これがみな、わが身にむくいてきて、一代ばかにをつれて通らにゃならんことになる。これがすなわち、「あほうのかがみにならんよう」と天からの、御言葉でございますよ。それから、世の中によくノイローゼだとか、せいしんぶんれつしょうだとか、いろいろにもうされておりますが、自分の思いが通らんと、人のめいわくになることを、一つもかんがえずに、まわりの人にくろうさす人がよくありますが、人間には、ばかもなければ、き⭕️ちがいもなければ、なんにもないのですよ。みな理からせめたてられて、くるしんでいるのですよ。これを世の中でよくいう、身から出たさびとでもいいましょうか、こまったものですね。お互い様に、一じがばんじ、くいあらためて。暮らさしてもらいましょう。身に病いはなくなりますでねい。
それから、たいしょくてんのみこと様の御意志にそうように、通らしてい
ただくのには、しとうのよくはよろしいなれど、ごうよく、とんよくが、ほこりとなるのでございますから、ごうよく、とんよくは、やめましょうねい。
どうせ人間は、食って通るだけであって、心のしせいを正しくみちびいてゆくにありと思います。このたいしょくてんのみこと様の御意志にそわんと、妊娠中でも、赤ちゃんがさかごになって、腹の中のびてしまったり、赤ちゃんがミイラになってしまったり、子宮外妊娠になってしまったり、つまらん心をつないでゆくと手術をせんでもよいのに、手術をしたり、腹を切ったり、よくで目が見えなくなったり、からだのきかいがしじゅうこしょうして、からだがよわくなったり、だるくなったり、にぎらんでもよいものをにぎると、からだがしびれたり、よくのために腹ばかり立っていると、目、鼻に、口に、耳に、頭にのどに、口中に、いつもこしょうがおきて、頭やみになって、皆欲のまちがいから、
四百四病が、かわるがわるにおきて、しんぞうべんまくしょうだのしんぞうひだいだの、何しろいっさいの不足をやめて、喜んで暮らす人になっていただきとうございます。あまり腹を立って、暮らしていると、かみの毛からまゆ毛から、まつ毛からみなぬけてしもうて、もうひとしきり腹をたつと、からだの中から血やら肉やらが、からだの皮をやぶって、がいかんへのうみが流れ出る。これが一名世上でいう、らい病とやらでくるしまなけれねばならんから、しょうしょうの腹立ちでもやめて暮らしてください。腹立ちの強い人が、とくとう病になったりひふ病になったりしますから、欲の心も、いいかげんにやめて、暮らさしていただきましょうね。それから、おおとのべのみこと様の御意志にそむくと、
田畑のみのりがわるく、不作となりますから、いっさい心してお暮らしくださいね。とにかく一家のかていで、あそこの家は、めが出たとか、めが出ないとかいうて暮らしているでしょう。みなこの神様の御意志にかなわんと、めはふきませんでねい。そこで、このにおいがけや、お助けや、心のかいりょうや、つくしや、はこびや、一生けんめいにやる人は、どんどんと一家のかていが、することなすことけっこうずくめになって、親様にも、月日様にも、八方様にも喜んでいただき、また人様からもうやまわれ、とうとばれ、あなた様のおかげでと人にかんしゃされて、日々けっこうずくめになって、ごくらくの世わたりをさしていただけるのでございますよ。そこで、われよかれのやり方ばかりして、日々へらず口をたたいているといつのまにやら月日がたって、日々につのり重ねたいんねんによって、中気にもなれば、のういっ血にもなれば、いろいろな病にとりつかれて、一代
くろうでおわらにゃならんことになりますから、日々心してお暮らしください。
いざなぎのみこと様と、いざなみのみこと様とは、いつも一家のかていの父母親様にいりこんで、自由用かなえていてくださるのでございますから、
「ぎみニそんのはじめだし、これまでなるは地ごしらえ」とおおせくだされてありますが、いつになってもきれめなく、御守りどうしのごくろうのほどさふかさをさとって暮らす人が、いつもごくらくの世わたりができるのでございますよ。天地のあいだの人々様のおかげ、おかげ大環(おおかん)わかりたら、何も不足をいうところはなくなりて、安心りつめいができますもよ。いつもかぐらや、手おどりや、すえではめずらし助けする。子供会のみなさまも、青年会のみなさまも、夏季大会におとずれて、年々きかせてもらって、教会や支部でも、きかせていただいて、日夜実行しておられると思いますが、御言葉をよく味わって、日々心にうちこんで、正気
づいた日ぐらしをさしてもらいましょうね。正気づいたひぐらしをさしてもらわんと、八社様や、岐美様「いざなぎ様といざなみ様のこと」や、父母様の御意志にかなわんと、ごくらくの世わたりはできませんでね。
きいて一つ、見て一つ、おこのうて一つ、あらわれて一つ、何が何でもどこもかしこも、自分の心にてらして、きょうは一日は、きょう一日は、と安心のできる世わたりをさしていただきましょうね。ういたりしずんだりの心が、じゅみょうの毒ですよ。「きりなしの、おかげ大環わかりたら、けっこうじゅうぶんこればかり、これが月日の教えやと、いうたにおいがきょうのできごと。一手一つにさしずどおりにはこぶなら、天地世界におそるものなし」と、おおせくだされて
ありますとおり、日夜心してお暮らしくださいませ。
自分の心が、人をばかに見える時は、自分の心がさがっているのですよ。それですからおれをばかにしやがる、と腹を立っている時が、人の話しをけとばしているのですから、その心をやめて、人をうやまう心と、きりかえて暮らしてゆけば、天からながめられて、「あの子はよい子だなあ」とおおせくだされて、いつも無事ぶなんに、おつれ通りくださるのでございますよ。そんとくなしの日暮らしのしかたが大切と思う。こうしてお互い様が、月日様の天くだりのしゅんに、人間と生まれてさしていただいているのは、よういならんしゅくせのごえんでございますよ。それですから、天の月日親神様の御言葉の中に、「この世へ出た人間というは、何ほどの理あるやわかりゃせんで」と、おおせくだされてありますが、まったくそのとおりと思います。人間というものは、身分すじょうをいうでなし、mなぜならば、みんな生まれた時は、はだかでこの世へ生まれさしてもろうて、親様月日様をはじめ、八方様のおかげ、父母様のごたんせいのおかげ、おかげおかげと喜んで暮らしてもらえばよいのであって、おれはびんぼうだからとか、あれがざいさん家だとか、いろいろな心をつかってやけくそおこして、つまらん人にならんよう、お互い様に、もちばたちばを大切にくらさしてもらうにありと思う。
車夫の話
親様が小さい時、ある人の話しをきかさせてもらった日がありましたが、どういう話しかと申しますと、みなさんが学校でならっておられる、かけざんも、九九がありますね。おとぎ話しのような話しですが、よういならん御言葉ですよ。よく味わってくださいね。それはね、こうゆう話しですよ、昔、人力車というものがあって、それを引くしゃふと、その人力車にのるお客さんと、話しあったのだそうでございますが、そのしゃふがお客さんにむかって、あなたはいつも車にのっておられますが、お年はいくつでございますかとたずねたそうな。そうすると、お客様は、おれは三十六才だ、車屋さんはいくつだねえと言われたそうな。わしも三十六ですと答えたそうな。そうすると、くるま屋さんが、お客様、あなたも三十六、わしも三十六、同じ三十六でありながらあせだくになってあなたをひかなけりゃならん、これはいったいどうゆうわけでしょうか、としゃふがお客さんにたずねたそうな。
そうすると、お客さんが、しょうしょうもじって、おまえさん四✖️九、三十六だから、ひく三十六だ。そうすると、どうなるのでしょうか、と車屋さんがお客さんにきいたところ、おれとおまえとは、けたがちがうから、いっしょにはならないなあ、といわれたそうな。そこで、きょうになってさとらしていただけば、前世のいんねんによって今の車屋さんは、お客さんであって、今のおきゃくさんが車屋であって、入れかわりになったまでやで、あまんじて、しょくむを喜んで通らしてもらえば、御言葉の中に、「つとめさえかわらんようになりたら、天のあたえにかわりない」ということが、はっきりとわかるでしょう。
それだから、みなともにたすけあいでしょう。楽をしている因縁で、車屋さんい、
に、賃金をはらわねばならんでしょう。ほねをおった因縁で、車屋さんはお客さんから賃金をもらうのでしょう。どちらがよいともわるいとも、きめられないでしょう。これですなわち、助けあいがよくわかるでしょう。
「そんとくなしやで、腹も立て、立てぬところがふかきやで、」と、おかぐら歌にも、おおせくだされてあるのでございますよ。「どんななかでも
いとわずに、はいはいとはいあがる道や、のぼりきったらおちにゃ通れん」とおおせくだされてありますとおり、お互い様は、けっこうになると、うきあがるくせがありますから、けっこうになればなるほど、おちついて、まじめなうえにもまじめで、暮らさしていただきましょうね。
そこで、うきあがるということは、金銭を湯水のごとくに使って、あるだけの金を使ってしまうと、今世のうちに楽をして通った因縁で、また車をひいて生活をするようなことになるでしょう。それだから神様の御言葉に、「おうと、おわれるとはちがう」とおおせくだされて、ありますとおり、いつも人をひく心、お互いに、「ひくいやさしい心」とおおせくだされて、ありますとおり、ひくいということは、言葉を相手の人に重ねないのが、ひくいのであって、何をこのばかやろう、何をこのちくしょう、と重ねるのが天から
見られて、「強いもの勝ちけんかばかり」とおおせくだされて、あるのでございますよ。言葉を重ねるのが、因縁をつんでいるのでございますよ。
いつになってもかぎりなく、共になかよく、むつまじく暮らすことがかんじんと思います。さすれば、いつの時でも病けなし、じじょうというものもおこらないし、けっこうずくめになるのはとうぜんと思います。みなさん、これから、いつの時でも、日夜心してお暮らしくださいませ。どんな時でも、
よいことをした時は、もくげきしゃというものは、なかなかありませんが、悪いことを懺悔する時は、かならずもくげきしゃがありますでね。
天の月日親神様は、たえず人間を見まもっていてくださるのだから、そこで昔から、「天に口なし、人をもっていわしむる」と、昔の人がいうておりましたが、今となってみれば、このたび天よりあまくだりくだされて、何から何まで、御言葉をくだされておられますから、天に口なしではなく、じかに御言葉をくだされて、人にもお話しをきかせてくだされて、こうしてやれよこうとりついでやれよと、いろいろと理というものを、おきかせくださるので、まったくありがたおことでございますね。
とにかく「人が何ごといおうとも、神がみている気をしずめ」とおおせくだされてありますとおり、まったくありがたいことでございますね。
さいふの話
この親様が大正十二年のすえに、この道のお話しをきかせていただきまして、今年で四十二年かんになりますが、いろいろな、ごりやくをいただきまして、きょうの日でございますが、明治三十一年に、この世に生まれさしていただきまして、この道をきかせていただくまでは、むちゃくちゃな日暮らしをしておりましたが、ふりかえってみさしていただきますと、この世に生まれさしていただいてから二十六才までは、理もひもわからず、ただうかうかと日暮らしをしておりましたが、きかしていただいてから、昭和十三年までと、十三才の年から二十六才までと二十七才から三十九才、すなわち、昭和十一年までと、昭和十二年から二十四年までと、昭和二十五年から三十七年までと、これはみな十三年のふし
で一つ一つふしからめがでて、けっこうにならさしていただいておるのでございますよ。それですから、人間というものは、うんめいがよくなった時、ういたういたで暮らしていると、うんめいがわるくなると、なかなかうんめいがかいふくしてきませんから、よい時もわるい時も、おてんとう様が、東から西へ、西から東へ、というように、いつもあいかわらずの心で暮らさしていきさいすれば、うきしずみはないものとわれは知る。人間というものは、持ち場、立ち場を、「大切に思う心はもとへ出せ」とおおせくだされてありますとおり、しんこうしんねんがもとでだと思います。そこでみなさんは、一度より二度、二度より三度と、いろいろにきかせていただくたびごとに、天理の話しが、腹の中へうえこまれて、しんこうしんねんをうちこんでいくうちに、しんこうの人になりきって暮らさしてもらうこそ、しあわせと思います。
なにごとによらず、つまらんことを腹の中へ、ひっぱりこんで、相手をもとめてけんかをしていると、病の根もきれませんし、じじょうの根もきれませんから、いさめるようなけっこうなことは、ひっぱりこんでも、ようきのもとになりますから、よろしいなれど、ぐちやこごとやら腹立ちやら、すぎたることをごたごたと腹の中へ、ひっぱりこむと、ろくなことにはなりませんからね。よくよく味わってお暮らしくださいませ。
善悪の通算
それから昭和十七年のくれに、あまくだりをいただいて、よいことをしたことと、わるいことをしたこととつうさんして、わるいことが一つのこりました。それは、四十五、四十四、四十三というように、どんどんとさかのぼっていって、じんじょう三年、すなわち、十才の時のことでしたが、天から「お前は、これはを知っているか」と、ひいばあさんがもっておられたさいふを、天から見せられてびっくりいたしました。
そのさいふは、三十六年前に親様が十才のとき、新潟県におらしていただきましたときに、秋祭りがありまして、秋祭りのお祭りにゆくおこずかいがほしくてこまっておりましたが、おとうさんやおかあさんは、柏崎の町のほうにいっておられましたし、おばあさんは、おさんばあさんであったので、村におさんがあったので、とりあげにいっておられたし、お祭りにはゆきたいし、日はくれてくるし、はやくはやくと思いながら、わるいとしりつつ、おばあさんのさいふの中から、二銭どうかを一つもちだして、お祭りにいって佐藤という砂糖屋から、黒砂糖をかって、黒砂糖をかじりながら、お祭りからかえってきて、知らんかおしておりましたが、あとでおばあさんにみつかって、しらべられて、これからはわるいことはしませんからと、ゆるしてもらいましたが、そのころは、天におわびをするということは、一つもわかっていませんでした。
そして、四十五才まで、天におわびをすることは気がつきませんでした。
そして、いろいろとよいこととわるいこと、つうさんの時がきたので、天から「お前はこれを知っているか」といわれました時は、びっくりいたしました、わるいことはできないものだなあ、と思いました。
三十六年も前のことが、今ここで天からつうさんに出ようとは、なんとおそろしいものだなあと思いました。そうしてみると、どんなよいことをしたことでも、わるいことをしたことでも、ぜんあくとわずに、みな天のだいちょうに、しるしてあるのだなあと思いました。そのおばあさんのさいふは、せいむ皮のような、はば十センチぐらいの、高さ五センチぐらいの、黄色のさいふでございました。天からこれを知っているかとお出ましくだされたさいふと、
いっしょであったので、びっくりいたしました。
それから、「このつうさんをどうしてするか」と天よりおおせくだされたので、いろいろとかんがえましたが、つうさんするものがないので、くるしんだあげく、親様月日様、つみのおぎないに、この私の命をとってくださいともうしあげましたところ、「お前のからだは、神のやしろともらいうけたのだから、命をとることということはできん」とおおせくださいました。
そこで、どうしたらよいかわからなくなりましたので、どうしたならば、このつみのおぎないをさしていただけるのでございますかと、おうかがいいたしましたところ、「お前は二銭だまをさいふの中から出して、くろざとうをかってたべたのだから、二世の世のたてかえに、くろうをいとわず、このくろうのさとをたすけると、いうのならゆるしおこう(ゆるしてやろう)」とおおせくださいましたので、ほっといたしまして、これからもなおいっそう心して、この世のあらんかぎり、このたましいのあらんかぎり、この肉体のあらんかぎり、天の月日親神様のおともをさしていただきとうございます。そしてしっかりと、てんゆうをいただきつつ、天地間の作物、そうもくちゅうちくるい、ぎゅうば人間というように、生あるものを一人もれなく、おん助けたまえと、天にちかいましたところ、天もお喜びになって、八方様もお喜びになって、八方様もお喜びになって、「いつの時でも手をうつところなくばならんで」とおおせくだされて、日夜場所も、所も、所もかまわずに、天におすがりをして、みなさんに助かっていただいておるのでございますよ。それですから、人間というものは、よいこともしているが、わるいこともなかなかたくさんあるようでございますね。それですから、「お互い様は、日々心しても
お暮らしください」といつも言わしていただいておるのでございますから、みなさんも、心しても
お暮らしくださいね。
これから子供会のたびにごとに、榊舞い(さかきまい)やら、むほんばらいや、神楽舞いやらを、つとめさしていただくのですが、榊舞いのぶんめんやら、御神楽のぶんめんやらを、よくあじわって、心しずかに、心してかぐらまいをつとめていただきとうございます。しゃばのおどりとはちがいますから、よくぶんめんを味わっておつとめください。世上の歌でも、みな理ぜめになっていますから、何ごとによらず、まじめに学びながら、けんきゅうしながら、味わいながら、実行して、かぞくそろって、えがおでお暮らしください、えがおで暮らさないで、「腹の中で人をにくんでいると、がんめん神経痛(しんけいつう)」「ならんことをむりにのぞんでいると、盲腸(もうちょう)なって、くるしまねばなりませんよ」「さきあんじが肺炎(はいえん)」「日々に、うるさいうるさい、口やかましい、いやになってしまうというて、ふそくをいったり、人にふそくをさしたりしている人が、ぜんそくとなったり」「きこえてもきこえないふりをしていると、しまいにはつ⭕️んぼ」になったり。「みないでもよいことをみて、しょらをやいて、やっきになっていると、そこひやら、トラホームやら、いろいろな目の病い」「人がよってたかって話しをしているすがたを見て、ねたんだり、そねんだりしていると、蓄のう症やら、はなたけやらで、はなの病い」をわずらいますよ。「くやしがってはぎしりかんで暮らしていると、しそうのうろうのように、はぐきの病いにかかって、はぐきからちをふいたり、はぐきの骨がくさったりして、こまらにゃなりませんから、こうした心ずかいをやめて、お暮らしくださいませ」わかったでしょう。「こうしてくれん、ああしてくれんと、ふそくをしていると、手の病い」「おわし(お金?)ぶそくをしていると、足の病い」「全身で心がねじれていると、全身にかいせんができて、なんぎをしなくてはなりませんから、ぶつぶついうことをやめて暮らしてくださいね」わかったでしょう。
御かぐら舞てほどき世界心道教
一下り
一ッ、天のつきひのおやさまが二十六さいそのときに
二ッ、てんからみちびきくだされてそれからそれいとみちとおし
三ッ、てんからみおとしなきようにおんつれとおりのありがたさ
四ッ、みめぐみふかきみおやさまはるかはなれしこのちじょうへ
五ッ、
天からじかにあまくだり四十一さいそのときに
六ッニはしらさまのあまくだり四十五さいのそのときに
七ッ八しやのみおやのあまくだりそこでつとめのできるように
八ッみちあけなされてくだされて五十九さいそのときに
九ッふしんにかかれとおこえありみなさまがたとだんじして
四十一ねんしょうがつにふしんのかかりとなりまして
二下り
一ッげんばのふしんのきょうのひやそこでみなさんおたがいの
二ッこころのふしんをいたしましょうげんばのふしんとりのふしん
三ッこころのあゆみとおたがいがげんばのふしんのこのあゆみ
四ッさそくうそくというようにみなさんがたあとてをつなぎ
五ッよろずのもとのねをほらすちからあるならほりきりて
六ッみよとてんからおおせやがどこのどこまでこのねえの
七ッほりかたおしえていただいてまつだいたすかるみちしるべ
八ッかんなんくろうのみおやさまはつぽうさまもそのごとく
九ッおやのくろうでこがひかるそんとくなしやでみなのもの
たがいたがいにたすかりてみなもろともにほがらかに


それから、左うでも右うでも、足の左のふとももも、右足のふともも、みな天からのごいけんは、ここのところに、さわりがつくのですよ。すなわち人間にとれば、自分より目上の人をたたく心でうでが上がらなくなったり、足の方はじゆうにあるけなくなったりするのですよ。
それですから、月日親神様のおんとも、または父、母様のおんとも、しょたいをもてば、おっとにおんとも、おっとは、かないにおんともというように、くらさしてもらえば、りょううでのつけねと、足のふともものつけねをこっせつするようなことはありませんよ。また、
「両手の手くびと両足の足くびに、こしょうのおこるのは」自分の思うとおりにうごかんというて、腹をたち、人がいうことをきかんというて腹をたつ。