ということは、どういうことであるならば、お互様に今世家庭で現われていることが、前生通った裏が出ているのだから、どんなことが現われてきても、本部へ運んできて、理というものを教えていただいて、前生の因縁を自覚していけば、大事にいたらず因縁をくい止めることができるから、大事の小事ききわけ、ということや。
お互様にどんな因縁が積んであっても、理でなる道であるゆえに、一歩手前で、因縁をふみかぶらずに暮らさせていただける、ということや。お互様に、心して暮らさせていただきましょうね、ということや。
たとえていうたら、あるじが極道して、家族の者を今世困らしいているとしたら、前生にないしょうで、家内が極道しておって、今世あるじに極道されて、前生困らしいた因縁の期間だけ、あるじに困らせられるのだから、人間というものは、見た目の解決ばかりしておって、あるじが悪いとばかり思って
そうして暮らしているうちに、家内がたま〜戻ってきて、あるじを離縁して、子供をつれて立ち去る家内もあるそうな。世の中というものは、よくむじゅんしているようなことは、みな前生の裏が出て、今世みなー家族かわめいているのでございますよ。
因縁自覚ということが、一番大切でございますよ。そうしてゆけば、おだやかに世の中が治まってゆくということや。
『理というものがわからねば、がんぜ知らずもおなじことや』と天で仰せだしてありますから、日々現われてくる因縁にとらわれぬよう、理を見わけて暮らしていただくことが、かんじんと思う。よくわかったでしょう。
二四日 岐様 身上て事情やとても そのごとく 八四三
はるとあきの ことばこころせ 仏滅 ☆ 六二七
一九五 🐑
『春と秋の言葉心せ』ということは、どういうことであるならば、皆さ
んもご存知のごとく、春は陽気で花も咲くし、人間にも若い時代陽気であって、浮いた浮いたの心で、花ざかりのような気持ちになって、いろ〜なものを着かざって、ふらりふらりと歩きまわって金を使う。そして若い時代には、何の働きもないくせに、親を困らした因縁で、年とって汗だくになって働いて、実りのような季節がきたころには、親不孝の因縁が積んであるから、今度は自分がかたずいて、子供が授かって、その子供が年ごろになって、親の働いた金をむさぼりとって使い果たして、秋の実りのに、田地田畑を売り払って、人手に渡ような時がくる。
そして何もないようになって、ふるえあがるような時がくる。そうしたこと数を積み重ねっていってオルことを、神様の御言葉の中に、『因縁をきらねばおもつづくなり、おそい早いかきらにゃ通れん』と仰せくだされてありますから、生まれさしていただいた子供を育てながら、親がざんげをし
てまじめに子供のめんどうをみておいて、娘や息子というように、若い時代がくる直前に、親の方が子供の姿を見て、「このくらいの年の時に、こういうぜいたくをして、親を困らしてきた。申しわけなかった」と、若い親が寄りの親に心真からざんげして、自分が使い果たしただけの御恩報じをさしていただいておりさえすれば、若い夫婦の子供は、年ごろになって極道するにはならずに、まじめな息子や娘に仕立てあがる、というものや。
さすれば、その若夫婦を年寄りの親が愛することになる。さすれば、若夫婦の子供が一生懸命に働いてくれて親思いになる。こうした家族制度が代々続いてゆけば、家中が陽気になる。家々が豊かになるから、身上や事情もよくなる。さすれば、むだ使いがなくなるから家庭が豊年万作となる。
あたたかい心で、家々が愛し合ってゆけば、つまらん因縁が現われてこないから、ものにおびえて、ふるいあがるようなことはなくなる、ということ。
や。一家そろいて万々才となる。こうした家庭ができあがれば、世界中が極楽世界になる、ということや。よく分かったでしょう。
二五日 美様 かなごろの はなしはみなも きいている 九五四
なれどほんしん わかりいるかよ 大安 ☆ 七三八
{ ... } 二一六 🐒
ということは、どういうことであるならば、皆さんが日々お話ししておられる言葉というものは、なかなかですねい。そのかなの言葉の声をかけようでお、先方が自分に満足のできる言葉をかけてくれるというもの、これが理というものでしょう。
それだから、発言する前に、『胸と口とが砂とすいのうにかけて、こした言葉を出せよ』といつも天から仰せでございますよ。それだから、耳にたこがいるほど聞かしていただいておっても、皆さんは家へ戻って実行をしておられますか。こういうことを、一番親様は心配をしていてくださるのでござい
ますよ。声のかけかたが違うと病気になったり、事情がおきたり、まわりの人が心配をしたり、うち〜の心のうちがまっくらになってしまいま物すから各自の家庭のめい〜が心して、声をかけ合っていただきたいと思います。
そこでたとえた話しが、あるじが外からおそく帰ってきても、「なぜ今ごろおそく帰ってきたか」というて、むか〜と腹を立つところを、ぐるっと向きをかえて、「お帰りなさい。きょうも早かったですねい」と声をかければ、「きょうはこれ〜こういうわけでおそくなったが、あすは早く帰れると思うよ」というて、先方からいいわけのような声をかけてくれることになるでしょう。
そこでまたむか〜してくるところを、ぐるっと向きをかえて、「外へ出られておるために、いろ〜と用事もありますでしょう。どうぞご心配なく」というて声をかければ、相手の人が、「これからは脱線しないように、家へ
早く帰るくせをつけよう」という心になって、一家の家庭が円満になる、ということや。
さすれば、家にいる家内の声のかけ方ひとつで、相手の人も家へ帰るのが楽しみになる。しゅうとや、しゅうとめや、小じゅうとも、孫も、皆うちそろって、夕食のだんらんのひと時がおくれる、というものや。それを反対に「きょうはおそいわねい。外で何してきたの。ご飯のしたくをして待っていたのに、あまり帰りがおそいから、しゅうとさんも、しゅうとめさんも、小じゅうとも、私も、子供も、みんなご飯をいただいてしまいましたよ。おふろみんなではいってしまいましたよ。おふろは少しぬるいかもしれませんが見おそく帰ってきたばちで、ぬるいおふろへはいりなさい。おそく帰ってきたばちで、ご飯でもおかずでも、みんな冷たくなってしまいましたが、勝手におあがりなさい。」相手方から、「おれはもうご飯もすんだし、おふろ
もすんだし」というて、ぷり〜怒って、寝間へはいって、相手の人が勝手に布団をしいて寝てしまうというようなことになったら、一家の家庭がばらばらになる身仕度を、はじめたようなことになってしまうでしょう。それだから、一家の家庭がばら〜にならないうちに、いっさいの心の向きをかえてお暮らしください、ということや。わかったでしょう。
二六日 国狭土之命様 なにもかも きいてつたえて いるけれど 一六五
わがみのしあん なんとしょうぞや 赤口 ☆ 八四九
三二七 🐓
ということは、どういうことであるならば、わが身の思案は家庭のこと。これは運んで聞かしていただいて、心のもっていき方をさとしていただいて実行にうつしてさえゆけばよいのであって、親様月日様、八方様のみ教えて聞かしていただいて、八方の人に話しをさしていただいて、ということが、『聞いて伝えているものの』ということや。
そこで皆さん、どんなことがあっても、いくら人間がきれいなことをいうておっても、『清水もしびんで出せば』ということは、神様のお話しは清い御話しでございますが、日ごろの行ないが悪ければ、しびんでしょう。しびんで出したお話しは、人に用いていただくことはできませんねい。『道に立つ身はよろずつつしめ』と仰せくだされてありますとおり、しっかりと実行していただきとうございます。
まあたとえた話しが、神様の御話しを、聞いて伝えていたとしても、実行のできん人のいうことは、人が用いてくれませんねい。「あんな心道教の話しを聞いている人が、家内や子供をほっておいて、二号三号もって極道をしているものの話しを聞いたって仕方がない。あの心道教の親様は、あんな極道をしている人を、支部職だの責任役員だの委員だの教師だの信徒だのと、寄せ集めてやらしておくということはない。あんなところへ行って、もしや家
のせがれやら、嫁やらが、極道になっては大変だ」と、ひとりちりふたりちり、年限たつうちに、人がひとりともよらなくなってしまって、先頭者が極道をしていると、枝先のものが皆不足をして、身上事情でもちもさげもならんようになって、困った者やと思った日もかず〜ありましたが、たとえ先頭者が極道をしておっても、枝先の人が不足をして、ばら〜になってしまえという教えてはないのだから、親様をめどうに、たれもかれも真剣にやらしてもらっておりさえすれば、いつか先頭者も、身上か事情で目ざめる日もあるのだから、「あの先頭者が、親様月日様、極道をやめますように御利益をしてやっていただきとうございます」と、一列の人が先頭者を願ってやるという、誠の心がほしいと思う。
先頭者は何かのショックで魔がさして脱線をしたのでしょうが、ものの半年もたたんうちに、中気のような身上が現われて、心を改良して御利益をい
ただいで、ついてできておりますが、回わりで不足不足をいうていた人はなかなか寄ってはきませんねい。ささいなことでも、先頭者はじめ一頭の者が、人を見て、ああのこうの批判をして暮らしていたのでは、しょせん助からんことになりますでねい。
御言葉の中に、『人を見て理を見る力なきものを、めくらというはちがいあるまい』と仰せくだされてありますとおり、「親様からいろ〜とお話しを聞かせてもらいたいが、ながく〜そばへによれないし、つまらんことや」というて不足を言っている人も、中にはたくさんあるように思いますが、
神様の御言葉の中に、『神というはつきあいよいものや』と仰せくだされてありますとおり、寄り日の時に、ごあいさつに出られて、遠慮なくどんどん質問してくださいれば、どんなことでも解答をさしていただきますから、ひとりでもよいから前へ出て、親様に声をかけていただきとうございます。
それから寄り日以外の日でも、なるべくお会いさせていただきますから、遠慮なく受付まで申し出てください。そこで皆さんに一言申し上げますが、ふだんつくしも運びもしないで、心の改良もしないで、お道に協力もしないで、においがけもお助けもしないで、ただばくぜんと本部へお参りにきて、人の話しを聞いてばくぜんと戻っている人は、おがみたのみのお参り信心で、親様月日様から聞かしていただくことはできませんので、自分から自然と遠ざかって、勝手に親様の悪口を言うている人も中にはあるそうな。
なれどそんなことは、こちらではおかまいなしですからねい。心次第でどれだけの協力したからとて、天で見おとしのありそうなことはありませんから、しっかりと目ざめて、道を正して向きを換えて、つくしもし、運びもし、心の改良もし、においがけもし、お助けもし、親様のところへじかに書面をよしてくだされば、一家の家庭の身上や事情の助かる道あけの御返事も、


るかと、本部では見ておりましたところ、こうした身上になられて困っておられますのよ。
とにかく家庭では嫁さんをもらい、そのしゅうとめさんと嫁さんがあまり仲がよくなくて、嫁さんが出ていったの、戻ってきたのというているうちにけんかした嫁さんに、さかんにめんどうを見てもらわにゃならんのだから、嫁さんをもらいたてに、あまりしゅうちゅうとめ風をふかしていたから、年限たって嫁さんに頭を下げて、たとえお水一杯でも、下の世話でもしてもらわねばならんようなことがおこりますから、皆さん方も、理というものを日々研究してお暮らしください、ということや。よろず助かる道をたどってお暮らしくださいね。わかったでしょう。
二三日 大戸辺之命様 おたがいに りでなるみちと こころして 七三二
大じのまえの しょうじききわけ 先負 ☆ 五一六
九八四 🐎